気まぐれ日記 08年12月
08年11月はここ
12月1日(月)「不幸の歯車・・・の風さん」
月初めが週初めに重なった。めでたいわけではないが、いつもより早い電車で出発。
勤務地の製作所で、早朝から交通安全立哨があり、それに参加しなければならないのである。
天気は快晴で、風もそれほど吹いていなかったが、今朝はやけに冷え込んだ。
ようやく立哨が終わったと思った頃から、不幸の歯車が回り出した。
早く職場に戻って、全員(130名以上いる)を集めての朝礼で挨拶しなければならないと焦っているところへ、横からわけの分からないことをゴチョゴチョ言う人がいて、暫時、足止めを食った。
朝礼には遅刻。もちろん、その前のラジオ体操もできず。
続いて、先月の残業申請処理に関わる業務をやろう、と動き出したところ、思惑と違うことが起きた。
既に、この週末時点で異常の発生を認識していたので、後は機械的に処理、と思っていたのに、認識していない別の異常が出てきたのだ。時間がないときは、仕事の質が落ちる恐れがあるが、今回は、まさにそれ。部下に任せていたら、事態は思わぬ方向に展開してきたのだ。こうなると豪腕の風さんはどうしても荒療治をしたくなる。一番得意なやり方だ。
ところが、今回はそれが裏目に出た。いくら豪腕の風さんでも、守ってやれるケースとそうでないケースがある。
そうこうしている間に、全く別の問題も発覚して、それに対しても、どうすべきか頭を痛めねばならなかった。さらに、また別の懸念事項も襲ってきた。こういった問題のために、あちこちへ電話をかけまくるしかなかった。
こうなると、もう同時多発テロみたいなものだ。
結局、終日、それらのことに忙殺されてしまった。
最後は、帰りの最終バスに乗るために、ばたばたと退社してしまう羽目に……。
帰宅して、午前0時半までダイニングで仕事をして、その成果を同僚にメールで送信した。
気が付いたら、今朝は、恒例の神棚への参拝をしていなかった。だから、こうなったのか?
12月2日(火)「鋭い上弦の月・・・の風さん」
本社の会議が気になったが、仕方ない。昨日の後始末のために、製作所へミッシェルで出社。ひたすらこの仕事に忙殺された1日だった。
夕方、家で自分の仕事をたくさんしたくて、早めに退社。ただし、ミッシェルを置いてバスにした。こうすると、電車の中で本が読める。わずかな時間だが、今は読書が必要。英語の勉強に力を入れ出すと、ミッシェルの中で聴く英語もまた必要になるが。
見上げると、鋭い上弦の月が澄明な夜空に輝いている。
最寄りの駅に着いて、電車を降りたら、目の前に次女の後姿があった。ようやく3年間のクラブ活動(ラグビー部マネージャー)を終えた次女は、少し帰宅が早くなったようだ。私は頼まないが、次女が頼んだワイフのお迎えの車に便乗することができた。
今度の週末は上京するので、その次の週に大阪でやる講演資料の作成に手をつけた。
ついでに、大阪取材計画の見直しも必要になった。
12月3日(水)「100年に1度の経済危機とは言うけれど・・・の風さん」
昨日、ミッシェルを会社に置いて来たので、電車で出社。
最寄りの駅まで途中長い坂を下るのだが、切通しになっているところがある。左側の斜面には携帯電話のアンテナがそびえていて、右側の斜面にはほったらかしの「へちま」がたくさんぶらさがっている。まるで長い冬瓜のようにたわわに実っていた時期が過ぎて、今は外皮が腐って海綿状の天然のスポンジができている。子供の頃、銭湯へこれを持って行って使っている女性たちがいたものだ。
私の勤務先はトヨタグループに属する会社である。昨今、マスコミがトヨタショックなどと皮肉っているが、大企業もそれなりに大変である。外部から見られている以上に、私は現場サイドで危機感をつのらせている。それはマスコミなんかが面白おかしく想像しているものとは違っている。社会全体が平気で日本の国力を低下させていることに対する危機感である。だから、当然、マスコミの愚かさには腹が立つ。他人の批判をする暇があったら、現実の問題を大所高所から分析して、本当に日本のためになる対策を議論すべきである。日本のためになる対策は、必ずや世界を幸せにすることにつながる。
午前中に、直面している経営環境について、専務の講話があった。午後には、仕入先との打ち合わせがあり、建設的な意見交換をした(つもりだ)。
夕方から本社へ出張し、昨日出られなかった本社の会議の続きがあり、常務を交えた議論となったが、ろくな準備ができていなかった私は玉砕した(情けない)。
気分を変えるため、退社してから床屋に寄った。反省するために坊主刈りになったわけではない。
12月4日(木)「奇縁に感動、そして愚かな現実・・・の風さん」
昨夜は就寝が遅くなってしまったので、電車出勤を諦めて、ミッシェルで出社した。電車で出社するためには、起床時間が45分くらい早まるからだ。
昨日、本社で玉砕した仕事の挽回をはかるため、今日はできるだけ時間を作って、自分の資料作成をやらなければならない。130人を超える部下がいても、自分で作成しなければならない資料もあるのだ。
昼前に、先週末の事件に関して、上司に来てもらい、マネージャークラスに訓話をしてもらった。平気で乱暴な意見を吐く私だけでは、ピンチを切り抜けることはできない。正攻法のまっとうな話も必要なのである。そういう話をしてもらっている時は、私はおとなしくしていることに決めている。何事も硬軟バランスである。
夕方、ちょっと面白いことがあった。
私の勤務先の関係会社(売上300億円強)のS社長から電話があった。仕事上の付き合いはないが、プライベートなことで時々連絡を取り合う仲である。
その社長に、先月、福島県郡山市で星亮一先生とお会いしたときのことを、手紙で知らせてあった。きっと興味を持ってくれるだろうと、思っていたのだが、電話で話して、それは期待以上だったことが分かった。
S社長は、ここ1ヶ月ばかりの間に、第二次世界大戦中に玉砕した南太平洋のアンガウル島のことに深く関わるようになり、さらに勉強しようとしていた。そこへ、私が星先生との出会いについて伝えたところ、早速、ネットでS社長は星先生を調べ、先生の近作『アンガウル、ペリリュー戦記』を発見し、その偶然に鳥肌が立ったのだという。
幕末明治維新のことのみならず、星先生とは太平洋戦争についても、少なからず語り合った。しかし、不勉強の私は、星先生の同書の存在を知らなかった。
電話で話しながら、この奇縁に亡くなった多くの英霊の導きを感じつつ、私もS社長と同様に、『アンガウル、ペリリュー戦記』を読んでみたいと思った。
そのような感動的な電話をした後、職場ではまたまた問題(今度は納入不良)が起き、定時後まで忙殺されてしまった。
頭に血が上ったまま自席に戻り、目の前の事務の女性に毎度のセクハラぼやきを垂れながら、資料作成の続きをやった。
退社したのは、会社バスがなくなってからだいぶたった時刻である。
帰宅したが、疲労で明日の準備ができない。
そのまま書斎でぶっ倒れた。
12月5日(金)「『源氏物語』口語訳のお母様・・・の風さん」
午後から上京するというのに、天気予報は最低だった。全国的に強い雨が降るというのである。雨の音で午前4時に目が覚めた。むろん場所は書斎の床の上。それから風呂に入って、十分に目を覚ましてから、上京する準備を始めた。
出張先の本社から直接東京へ向かうので、重い荷物を引きずりながら電車で出かけることになる。駅まではワイフに送ってもらった。
本社のある駅のコインロッカーに荷物を預けようと思ったが、ロッカーの数が少ない上に1個も空いていなかった。それで、止むを得ず、本社までキャリアー付きバッグを引っ張って行った。
午前中の会議では、一昨日の玉砕の挽回を挑んで、何とかサマになった。会議後、すぐに資料に修正も加えることができ、安心して上京できる状態になった。
ところが、このあたりから猛烈に雨が強くなり、雷まで鳴り出した。昼食後、もう一つの会議にも出席して、午後2時半頃に退社した。午後有休にしてあるので、気は楽だが、雨はまだしっかり降っている。キャリーバッグが濡れるのが、何とも情けないが仕方ない。
今回の上京では、往復の車中で読書しようと2冊持参してきている。1冊は半分近く読んでいたので、そういう意味では1冊半持参したと言う方がいいか。
寝不足でさえなければ、読書に専念できる。
名古屋からのぞみに乗車して、品川で降り、山手線で新宿へ向かった。
今夜は、高校の同級生の親友と、京都大学の上野先生のご両親を訪ねるのだ。
上野先生のお母さんが、介護中に書き上げた『源氏物語』口語訳を、親友が全8巻の私家版にした。それが新聞でも取り上げられるほど評判になり、このたび日経新聞から出版されたのである。お母さんの口語訳執筆は18年にも及んだし、親友の編集出版作業も3年近くかかった。その間、私は、親友と会うことをやめて、親友に作業に集中してもらっていたのだ。それが、ようやくある段階までたどり着いたので、親友を紹介した私を含めて、感謝の場を設けてくれたのである。恐縮すべきことで、とても緊張していたが、一度はお会いしたいという思いもあって、訪ねることにしたのだ。
新宿で2年半ぶりに会う親友と落ち合って、京王線でご両親のお宅へ向かった。
東京も朝から雨だったらしいが、目的地へ着く頃には、もう雨の心配が全くない天気になっていた。
駅には上野先生ご自身が迎えに来てくださり、タクシーで向かうことになった。
玄関に迎えてくれたご両親は、とてもお元気そうで、しかも心から歓待してくださっているのがひしひしと伝わってきて、とてもハッピーな気分になった。
約3時間の滞在だったが、大正14年生まれのお母様と、まるで以前からの知り合いのように話がはずんで楽しい時間を過ごすことができた。とてもチャーミングで明るい方だし、過去そうであったように、今もアクティブな印象を受けた。
一方、終始穏やかでにこやかにされているお父様は、包容力というか人間としての大きさを感じる方で、素晴らしいご一家だと羨ましくもあった。
タクシーで駅まで戻り、親友と近くのコーヒーショップに入って、そこで私がコートを先生のお宅に忘れてきたことに気付き、慌てて電話して、先生に持って来てもらったのは、何とも恥ずかしい限りだった。
12月6日(土)「超高密度の1日・・・の風さん」
7時起床。密度の高い1日が始まった。
新橋駅近くのドトールでサンドイッチとコーヒーの朝食(500円)にした。店の奥が喫煙ゾーンになっているが、コーヒーを買って直行しているのは女性が多い気がする。
昨日と違って朝から晴天だ。アクティブな風さんにはふさわしい1日の序章だな。
JRと地下鉄を利用して、今日、最初の目的地へ向かった。
日本数学協会が主催する「教師のための算数・数学講座」。主に小学校や中学校の先生に、算数や数学をどう教えるかというセミナーである。初参加でしかも飛び入りの私には、いったいどんなことが問題になっていて、どんな議論がされるのか興味があった。今回のテーマは分数である。
最初に上野先生が、分数について、歴史的・文化的な背景も含めて解説してくれた。
そもそも分数とは、「数」の拡張の過程で生まれてきた「数」なのである。つまり、一つ二つという自然数が最初にあり、負の数が出てきて、零の概念が出て、各整数の間を埋めるものとして小数が誕生(つまり1と2の間にある1.5とかね)。続いて、小数でも表せない「数」として分数が登場してきたのだ。たとえば、1/3は、小数では0.33333333333333……と表現しきれない。
あとで埼玉大学の岡部先生が、具体的な数学の問題を示して、いかに分数が誤解を生みやすいものか説明してくれた(私は、それを「数」とは思わず、比の値ととらえてしまった)。
最後まで聴講していると、午後の予定に支障が出るので、11時15分ごろに、そこを失礼した。
地下鉄を乗り継いで新宿へ出、立ち食い蕎麦で昼食(500円)にした後、都営バスに乗った。
昨年の浄輪寺での年忌法要から、関孝和没後三百年記念事業は始まった。それが、今日の追善供養で、いちおう一段落するのである。
1年ぶりに浄輪寺にやって来た。通算5、6回目か。本堂を覗くと、日本数学史学会の佐藤会長のお姿が見えた。
日本数学会を始め、関係する諸団体のご努力で、都からも予算が得られたそうで、浄輪寺にある関孝和の墓地はきれいに整備されていた。
午後1時から、厳かに追善供養が始まった。昨年と違うのは、笛や笙といった和楽器の演奏者が4名いる中で、住職の読経がなされたことだ。
各団体の代表の焼香に続いて、一般参列者の焼香となったが、たまたま着席していた位置の関係で、私が先頭バッターになってしまった。恐れ多いことである。
午後2時から、墓地での読経と焼香となった。これが昨日だったら、雨でできなかったろう。
記念写真を撮ったりしているうちに、どんどん時間が経過して、浄輪寺を出発する予定時刻を過ぎてしまった。
再び都営バスに乗って新宿へ戻ったが、結果としていったん目的地から遠ざかったわけで、この道順はよくなかった。私は上野を目指していたのだから。
新宿から山手線に乗った。たっぷり時間があると思っていたが、この判断も甘かった。
上野の国立科学博物館に着いたときは、閉館まで1時間しかない状態だった。
それにしても銀杏並木の道を歩くとき、臭くてかなわなかった。
今日見にやって来たのは「数学 日本のパイオニアたち」展で、これも関孝和没後三百年記念事業の一環である。
展示は「和の数学」と「洋の数学」の2本立てだった。「和の数学」はつまり和算のことなので、私はいくらか知っているわけだから、さーっと通り過ぎてもよかったのかもしれない。しかし、展示の密度の高さに足は何度も止まってしまった。授時暦に数学がどう使われたかというパネルでは、興味深くて、思わず書き写してしまったほどだ。『九章算術』の構成が、問題文、答え、計算手順となっていて、算額や和算書の書き方のルーツを確かめることができた。デジカメで写真撮影できたら、どれだけ助かったかしれない……が、そりゃ無理な話だ。
「洋の数学」に入る前で、また一時停止した。参考資料の入手方法が示されていたので、それをまたせっせと書き写したからだ。
菊池大麓、高木貞治、小平邦彦の展示をじっくり眺める時間は、もう残されていなかった。まるで試験前夜のようだった。あ、これはどういう意味かというと、私はいつも試験前夜に出題範囲すべてを復習することができず(つまり愚図でのろまということですな)、試験の成績はあまり良くなかったのだ。
できれば、また来なければならない。
博物館を出ると、外はすっかり夕闇に包まれていた。ライトアップされた建物は、妖しく美しく空間を押しのけていたが、また銀杏の異臭が鼻をついて苦痛だった。ハーブ好きの風さんでも、この臭いは耐えられない。
これで1日が終わりなら、とても楽だろう。そうは問屋が卸さないのが、私の無茶な人生シナリオだ。
再び山手線に乗った。
今度は、咸臨丸子孫の会の忘年会である。え? 遊びだろうって? 作家は、あらゆる機会をとらえて勉強と取材をするものである。また、そうでなければならない。実は、けっこう楽しかったりもするが(笑)。
田町で降りて、会場となっているイタリアンレストランを目指した。
キョロキョロしながら歩いていたら、レストランのすぐ手前、右手のビル(第一田町ビル)の前に「西郷隆盛と勝芥舟が無血開城のための会談をした場所を示す記念碑」を発見した。つまり、薩摩藩下屋敷があった場所らしい。
写真で何度も見たことがあるが、本物を見たのは初めてだった。すかさずデジカメで写真を撮った。
今夜はワイン飲み放題が売りの忘年会である。それが楽しみでもあった。
私の右側に座っておられたのが、ジョン万次郎の子孫の方で、随分とたくさん話ができた。初めて教えてもらったこととして、ジョン万次郎がアメリカ彦蔵と会ったのは、横浜あたりに寄港していた咸臨丸の上だけでなく、あちこちで遭遇していたそうで、同じ漂流者からの転身として、お互いに強く相手を意識していたことを想像させる。人間が浮かび上がる一瞬だ。
他に、斉藤留蔵やトミーの子孫の方と会えたのもうれしかった。
忘年会や2次会も含めてかなり密度の高い会話をしたのは、東大の博士課程に在籍している女性で、万延元年(一八六〇)頃の日本の開国に与えた、プロイセン(ドイツ)やオランダの影響を、日本側だけでなく、彼の地の資料も調査しながら研究しているという。ぜひ多面的な視点で研究してほしいと私が繰り出す多くの変化球に翻弄されながらも、彼女が真摯に受け止めてくれたのがうれしかった。
飲み放題の割には、痛飲したわけでもなく、ほど良い酩酊のままホテルに帰還し、さっさと寝てしまった。
12月7日(日)「帰宅しても多忙・・・の風さん」
今朝もあまり寝坊せず、7時過ぎに起床。
チェックアウトし、また駅近くで朝食を摂り(今朝は立ち食い蕎麦)、山手線で品川へ向かった。これも後で気が付いたのだが、切符は東京駅から指定を取ってあった。来たときに品川で降りたので、帰りも品川から乗るものだと、身体が勝手に動いたのだ。こういうのを老化現象「ボケ」という。
今日、帰宅するまでの目標は、読書である。1冊半を読破できるだろうか。実は、読みかけの本が、薄いわりに手強くて、なかなか読み進むことができないでいた。有名な数学者、志村五郎先生の『記憶の切絵図』である。論文のような構成と文体は、まあ受け入れられるが、思考回路が常人とは異なっており(もとい、私とは異なっていて)、言わんとすることをそのまま鵜呑みにせずに背景や理由まで推定しながら読み進めているため、どうしても時間がかかってしまうのだ。
昨夜もそこそこの睡眠をとっていたので、居眠りすることもなく、シニアグラスの助けも借りながら、夢中で読んでいったが、結局、この読みかけの『記憶の切絵図』を読了するのがやっとだった(今年40冊目)。
しかし、丹念に読み進んだおかげで、志村先生を立体的にとらえることができたと思う。明快な論理と単純化(あるいは一般化)が、先生の行動規範になっていて、それらを正直に文章化しているため、かえって違和感を覚えてしまうのだが、矛盾だらけの妥協人間には仕方ないことのように思える。もし、お会いしてお話できることがあれば、こちらの浅薄ぶりはいちどきに見破られ、時間の無駄と即断されて、あっという間に視界から消え去ってしまわれるに違いない。
昼過ぎに帰宅できた。
荷物の片付けを急いで終え、かねて決めていた通りの行動、ワイフとランチに出かけた。
昨日の高密度の行動はしっかりチェックされているので、私の疲労を心配してくれたが、やれるときにやっておかないと、今度いつできるか分からない。ランチついでに、ケータイの機種変更という目的もあったのだ。
ケータイは来年のドイツ行きも考えて、グローバルサポートタイプのものにした。
ランチはラーメン。餃子も注文した。
今日は、その後、雑用処理の嵐となり、論文はもとより、来週の講演の準備、エッセイ執筆など、全く手がつけられなかった。明日からも大変な日々が続きそうだ。
12月8日(月)「冬、本番近し・・・の風さん」
今週末までにやらなければならないことが山積している。昨日までに完了したものは一つもない。
どこかへ出張する予定はなかったので、電車で出社。こういうときは、わずかでも読書ができる。英語の録音を聴くこともできる。しかし、残念ながら、今週末までにやらなければならない山を崩すことにはつながらない。
出社してまもなく問題が発生した。会社の仕事というのは、こういったことの繰り返しだ。未然防止のために、日頃から様々なことに取り組んでいるが、後を絶たない。何もしなければもっと大変なのだろう。そう思うしかない。
ため息をつきながら退社した。このところ外気が冷え込んでいる。
今日はマフラーもして出てきたが、風がほとんどないので、とても楽である。
帰宅したが、長男も次女もまだ帰っていなかった。
楠木誠一郎さんの新刊が届いていて、なぜかホッとした。他人のこととはいえ、順調な仕事を見るのはうれしい。
夕食後、少しでも身軽になろうと雑務処理から取り組んだ。
それだけで、もう就寝予定時刻が迫ってきたので、書斎を撤収した。
今年もあと1ヶ月を切った。ホームページのアクセスカウンターが110000に届くだろうか。微妙だ。
12月9日(火)「長女のために年賀状作り・・・の風さん」
先週から組合と対立関係になっている。見解の相違だが、私が正しいに決まっているので腹が立つ。今日は、1時間もかけて、貴重な話をしてあげたのに、その価値が分からない。どうしようもない。
職場で大きな問題が起きたが、同時並行でやらねばならないことがあった。
本社へ移動して、役員の出る会議に出席。指導をたくさん受けて退社。直帰した。
久しぶりに長女が来ていた。餃子を作っていたが、一緒に作っている余裕はなかった。
餃子ができた頃、階下へ降りて夕食にし、その後、長女のために年賀状作りを手伝った。レストランのコックとは言え、長女は一流企業の会社員である。仕事は年中大忙しらしい。せめて年賀状ぐらい助けてやらねば。
12月10日(水)「労使協力が持論・・・の風さん」
今週から職場の女子の夜勤がスタートしているが、直接その感想が聞けていない。うまく行っているのだろうか。心配だ。
世の中の例にもれず、勤務先の経営環境も激しく悪化している。午前中に、専務の講話があった。その中で、管理者のボーナスの削減のことがでてきた。不況で仕事がなくなると、一般社員というか組合員側は、残業が減って実質収入が減る。そういうときに、管理者側は平然と満額のボーナスをもらえるのか、という論理である。
逆に、繁忙の時は、管理者はいくら残業をやっても手当てが増えるわけではないのだから、あいこじゃないかという論理もある。ま、それほど、おとなの世界は難しい……が、会社が潰れてしまってはお話にならないわけで、だから労使の協力が必要なのである(持論)。
昼休みを利用して、血圧の経過観察を受けた。いつものように正常値。これで、もうしばらく生き長らえられそうだ。
12月11日(木)「憂いも辛いも・・・の風さん」
本社へ出張し、会議に出た後、某専務への報告をした。今日はひどくご機嫌ななめで、手厳しい指導をたくさん受けた。5人という大人数で押しかけたのがよくなかったのかもしれない。自動車業界を取り巻く環境がきわめて悪いだけに、経営者は憂鬱なのに違いない。
製作所へ戻ろうと外へ出ると、小春日和である。経営環境と天候の間には相関関係はない。ミッシェルを軽やかに走らせた。
製作所に着いたが、また組合から妨害があって、予定していた仕事ができず、報告書作成に時間を費やした。こんなことでは会社がつぶれるぞ。完成した報告書を届けようと自ら持参したら、既に全員帰宅していて、部屋には鍵までかかっていた。
ミッシェルを置いて電車で帰ろうかと思ったが、やめた。
来年3月に横浜である五大路子さんの公演チケットを、ネットを通じて購入したら、早くも届いていた。さすがにチケットぴあは早い。人生、楽しいことと悲しいことが繰り返すなあ。その公演のタイトルは、『憂いも辛いも、いろはにほへと-長谷川伸八景-』 である。かなり前の席で観られそうだ。
12月12日(金)「苦肉の策の午後有休・・・の風さん」
大野先生から借りたノートPCを大阪へ持って行こうと思っていたので(軽いから)、今日、会社へ堂々と持ち込んで(正門で手続きをして)、ちゃっかりプロジェクターでの動作確認をした(笑)。これで、講演に使える。
それはともかく、今朝、朝一番で組合と打ち合わせをした。もう議論はおろか指導する気にもならなかったので、黙っていた。詳細の報告書は出したし、これでターミネイトだ。
あらゆる仕事が遅れていたので、午後有休にして昼食後退社した。
ダイソーでノートPCを入れるA4サイズのクッションバッグを購入し、給油もして帰宅した。
やることは山のようにあるが、頭痛もしている(やや無理な文法)。ベッドに横になって、2時間仮眠した。藤原正彦先生の本によると、頭を使う仕事には十分な睡眠が必要である。まして、老化した私には、眼精疲労を防ぐ意味でも、仮眠が必須だ。
夕食後、猛烈な勢いで、論文作成に注力した。
100%の完成度ではないが、とりあえず大野先生と本山キャンパスへメール送信していおいた。
やはり疲れた。
12月13日(土)「次女の作品をじっくりと鑑賞・・・の風さん」
愛知県芸術文化センターへ行った。旭丘高校美術科に通う次女の卒業展「旭美展」が開催されていた。ラグビー部のマネージャーをやりながら、少ない時間の中で、ひたすら油絵の勉強に励んでいた成果が見られるのだ。もっとも普通の勉強はしていた気配がないので、上達していて当然かも。
作品は二つ。どちらも良い作品だった。
自画像の表情には自身の内面が出ていた。幼い頃から観察眼の鋭い子だったので、顔の描き方は優れていた。だから内面を描くことができたのだろう。そして、高校3年間の人間的な成長も見られた。それが作品に出るのは、自然なことなのか、上達したからなのかは、私には分からない。とにかく観る者に迫ってくるものがある。しかし、リアリティを追求する作家の私からは、顔以外の描き方に不満を覚えた。頭部の中心線と上体の中心線と下半身の中心線がずれているが、服の下の筋肉の緊張が現れていない。膝から下の画布からはみ出た部分(つまり描かれていない部分)の両足の地面に対する踏ん張り具合が分からないのだ。作家は見えないところも描くものである。
抽象画は色使いが美しく、ダイナミックな動きが感じられた。しかも、平面的でなく立体的な、奥行きを感じる動きだ。絵から躍動感を感じるのは、力強い作品なのだろう。大きさも100号である。高校生にとって100号は大作だ。私の感性からは生命の誕生から死滅までが表現されていると思ったが、もしそうなら、死後の暗黒が感じられなかった。後で本人に確認したところ、暗いイメージは描きたくなかったのだそうだ。やはり、画家は生を賛美し、作家は死を見つめるのだろうか。
作品展全体はレベルが高く、10年後、20年後の生徒一人一人の活躍が楽しみである。もっとも私はさっさとこの世からおさらばしているかもしれないが。
本山へ移動し、ミスドで昼食にし(100円均一だったから)、大野先生とゼミをやった。「労作ですね」と大野先生から評される論文を、あと少し手直しすることになった。次女の油絵と私の論文とどちらが労作か。たぶん次女の方だろう。ま、とにかく、レフェリーからわんさと修正がかかるのは嫌なので、完成度には高過ぎるということはない。
帰りに三省堂で本を買って帰宅。
今夜は、基本的に明日の講演の準備だけにしよう。
12月14日(日)「超超過密スケジュール・・・の風さん」
最寄りの駅を出る電車の時刻を間違えた。6時58分発だと思っていたが、実は51分発だった。49分頃にワイフに注意され、大慌てでクルマで送ってもらった。
拙宅は駅まで確かに近いが2分で行ける保証はない。
駅前に停車するが早いか、ドアを開けて飛び降りた。自分の本とPCなどで重いキャリーバッグを抱えて、駅の階段を登った。高架を電車が入ってくる気配がする。改札をすり抜けて、今度は階段を駆け上った。
ホームに出ると、電車のドアが閉まる寸前だった。思わず、
「待ってくれぃ〜」
叫んでしまったぜ(笑)。
ぜーぜー。電車に乗ってしばらく呼吸が荒く、動悸もおさまらなかった。
なぜこんなに早く出発したかは、以下の記録を読めば理解されよう。
のぞみが新大阪に着いたのは、8時43分である。
東海道線で大阪へ行き、改札を出て、かなり歩いて地下鉄谷町線に乗った。
四天王寺前夕陽ヶ丘駅に着いたのが、9時22分である。ここまで予定通り。
目指すは吉祥寺(きっしょうじ)。東京なら吉祥寺(きちじょうじ)と読むが、大阪の吉祥寺は吉祥寺だ(?)。曹洞宗のお寺で、赤穂義士の墓があり、今日は10時から義士祭がおこなわれる。その前に、義士の像をデジカメで撮影したかったのだ。義士祭の準備中で、徐々に客が集まり出している頃合だった。うまい具合に、村松喜兵衛秀直と三太夫高直、父と子の像を見つけて写真を撮った。
再び、降りた駅へ戻って、今度は谷町九丁目へ。地下鉄のアナウンスで谷町の「たに」にアクセントがあるのは、大阪だからだろう。英語でも同じだったので笑ってしまった。
次の目的地は生玉(生國魂)神社……いくたまさんである。鎌田俊清の門人らが元文四年(1739)に掲げた算額を復元したものがあったので、それを撮影するのが目的である。
鳥居の前で落ち葉を集めていた若い権禰宜(ごんねぎ)に、算額のある場所を尋ねると、即座に、右手奥の天満宮を指差して教えてくれた。
あったあった。まだ板目も新しい復元算額が天満宮の中に、堂々と掲げられていた。
拝殿にもちゃんとお参りして、元来た道を戻った。
次も谷町線沿いである。谷町四丁目で降りて、大阪歴史博物館へ。大阪城公園内から移った新ビルは立派だが、大阪城もいいな。
学生割引を使わずに入場した。9階の近世のフロアで間重富関連の展示を鑑賞。大阪の勉強のために、また来なければ。続いて2階のなにわ歴史塾つまり図書室へ入った。
ここで、ノートPCを出して、撮影したばかりのデジカメ写真を、用意した講演スライドの所定の位置に貼り付けた。ご当地スライドはきっと受けるに違いない。
またまた谷町線で最初の乗車駅、東梅田に戻った。12時15分である。
ドトールを見つけて、サンドイッチとコーヒーの昼食にした。実に美味しく感じたのは、午前中が充実していたせいかもしれない。しかし、いつもこんなことしていたら、きっと死ぬな(笑)。
今日の講演は、大阪産業大学と近畿和算ゼミナールが主催する「市民講演会」だった。折りしも12月14日だったので、「円周率と忠臣蔵」という得意ネタでやらせてもらった。しかし、歴史の講演をするのが目的ではなく、作家として和算家や歴史をどうとらえているかを感じてもらいたい、と最初に述べさせてもらった。
関係者の方たちは、小寺先生を始め、皆さんとてもあたたかく迎えてくれて、非常にうれしく気持ちよくやらせてもらった。今朝撮影した写真もそれなりに効果を上げたようだ。
終わってから拙著の即売会もやらせてもらい、持参した10冊のうち9冊が売れた。驚異的な売れ行きだった(笑)。帰りの荷物が軽くなったのもうれしかった。
その後、近畿和算ゼミナールの懇親会にも呼ばれ、スピーチで、間重富を書こうとしているが、そのために大阪をもっと研究しなければならない、と宣言した。
帰りに新大阪駅で蓬莱のぶた饅を土産に買った。
駅まで迎えに来てくれたワイフが狂喜した。
12月15日(月)「必死にエッセイを書き上げた・・・の風さん」
昨夜、大阪から帰宅して、できれば完成させたい仕事があった。「大衆文芸」新年号のためのエッセイである。しかし、疲れていてできなかった。
一夜明けて、会社の1週間が始まったが、頭の中では「大衆文芸」のエッセイのことが重くのしかかっていた。いちおう今日が締め切りである。
……と言いながら、今日は社長報告のある日でもあった。こっちも気になる。
いつものように出社して神棚に参拝、ラジオ体操もして、1日が始まった。
昼に本社へ出張し、部長と打ち合わせ。1時間半後に社長室へ行って、社長報告。ただし、今回は部下が説明役をしてくれて、私はそばにいただけ。直後、担当常務への業務報告をして、手厳しい指導を受けた。さらに夕方、某部署の部長と打ち合わせた。
そのままミッシェルで有料道路を疾走して直帰。
またまた楠木誠一郎さんの新刊が届いていた。講談社青い鳥文庫『豊臣秀吉は名探偵』である。今年頂戴するのは、これで14冊目になる。ひょえ〜!
夕食後、書斎でダウン(今頃、新鷹会は山珍居で忘年会のはずだ)。
午前零時過ぎに目覚めて入浴。さあ、エッセイである。午前1時から5時までかかって、何とかできたので、伊東昌輝先生へファックスするとともに、編集担当にメール添付で送信した。なーんだ、やればできるんじゃん。
午前7時まで仮眠しようと、午前5時半からベッドにもぐり込んだ。
12月16日(火)「ミッシェルが壊れる・・・の風さん」
寝不足で頭が重いまま出社。
今日も会社で次々に問題が起きる。ほとんど自分の席にいない状態。
全面解決しないうちに時間が来て、本社へ出張。副社長報告をした。説明役は部下。成果があった。うれしい。
すぐに製作所へリターン。心なしか、ミッシェルの走りが心地よい。
高密度の仕事。
へろへろ状態で退社。気持ちは自分の書斎へ。今朝未明にできたエッセイを修正したい。やはり書き終えてすぐ出すのはよくない。焦る。
……と、家路の途中でミッシェルの調子がおかしくなった。動力の伝達が断続的に途切れる感覚がある。オートマだがクラッチがすべっているような……、だからミッションが壊れた気がして恐怖する。なぜかと言うと、もしそうなら、修理代がべらぼうになるからだ。
信号待ちでエンスト気味になるのも妙だった。
とにかく、だましだまし走らせて、何とか帰宅。
ミッシェルが壊れた話を当然ワイフにしたが、ワイフからは「見せてもらったエッセイの出来が悪い」と非難された。やっぱりそっちが気になる。
すぐさま書斎で手直しにかかり、またまたファックスとメールを送った。
そこまでで、もう限界だった。
12月17日(水)「ミッシェルの不調の原因は・・・の風さん」
午前中を有休にして、先ず、ミッシェルの修理を依頼した。出社後になるが、取りに来てもらい、ついでに代車も置いて行ってもらうのである。
クルマが壊れたことを新鷹会の仲間へメールしたら、腹の立つ返信があった。
「この時世、マイカーが壊れることは良いことです。さっそく廃車にして、トヨタ車を買いましょう」だって! 他人の不幸を……!
会社へは電車で行くことになるが、最寄りの駅から会社までバスがあるかが問題だった。利用者が少なくて予約制なのである。電話して確認すると、今日はバスは出ない、と言う。困ったと思っていたら、バスを出しましょう、と言ってくれた。ありがたかったが、タダではない。バスを運行するのは関係会社で、本体が料金を支払うのである。
出発までに用事を一つした。6日に国立科学博物館で見た資料を購入するための手紙を書いたのだ。郵便小為替は用意してあったが、封書を作成する時間が全くなかったの。340円分の郵便切手も入れて、手紙が完成した。
急いで階下へ降りて、昼食を摂ることにした。好物の卵かけご飯だ。暖かいご飯に醤油でといた生卵をぶっかけて、漬物をおかずに食べる。わずか6分の早業だった(笑)。
外へ出たら、小雨が降っていた。少し歩いたところで社員証を忘れた気がして、慌てて家へ戻った。茶の間へ直行したが、……ない! 持っていたカバンの中にあった(涙)。
電車の発車時刻まで時間がなくなってしまい、傘をさしながら走った。いい運動になる(負け惜しみ)。
午後いっぱい夢中で働いて、早めに帰宅することにした。今日は某忘年会のある日だったが、あまりにも多忙で昨日のうちに欠席に変更してあった。それで、よかったのだ。
その間にミッシェルの不調の原因が分かったという電話がケータイにあった。プラグコードが劣化していて火花が外部へ漏れ、失火状態だったのだという。最近燃費が悪かったのは、そのせいかもしれない。部品を入手して金曜日には修理を完了して渡せるとのことだった。大修理でなくてよかった。
帰宅したが、今日も疲労が濃い。
今夜は、大学の助成金で購入したいPC関連の備品をリストアップして、大野先生へメール送信した。ここで限界⇒就寝。
12月18日(木)「軽井沢夏期大学講演内容・・・の風さん」
今日も電車で出社。まだそれほど寒くないので助かる。文庫を持参して、しっかり読書する。
今日はどこへも出張しなかったので、ひたすら会社の仕事に専念したが、起きる起きる、今日もトラブルが起きた。世の中の不景気の風が、いよいよ私の職場にも吹き込んできたのだ。明日から生産活動が激減する恐れが出てきた。愚かなマスコミが煽るので、一般大衆までが気分的に不況になっている。しかし、現実に自分の足元がぐらぐら揺れ出すと、非難しているばかりでは何にもならないことが分かる。
一方、プライベートの私はとにかく忙しい。やれるうちに少しでも仕事をしなければ。
拙宅の最寄りの駅に着いたら、激しく風が吹いていた。海に近いと、こういうことがある。しばらく歩いたら、長男とかち合った。なーんだ、こいつも同じ電車に乗っていたのか。
帰宅したら、展示の終了した次女の絵が玄関奥の廊下に立てかけてあった。100号の力作である。とにかくでかい。
岩波書店から上野健爾先生や小林龍彦先生ら4人が著者の『関孝和論序説』が届いていた。どうしても買わなければならない書籍だが、今回は出版社から寄贈された。貧乏作家にはありがたい(感謝)。
来年8月に軽井沢夏期大学で講演をすることになっている。その講演内容を明日までに郵送で連絡することになっていた。明日投函しても間に合わない。いや、その前に、そもそも、まだできていないのである。
指定されたタイトルに合わせて、講演内容を考えて説明文を作成した。そして、これを軽井沢町教育委員会へファックスすることにした。月曜日と同様に、書斎からパソコンを使ってファックスした。封書は明日投函するしかないな。
今夜も、ここまでで限界⇒就寝。
12月19日(金)「年末恒例の大会議が終了・・・の風さん」
代車のヴィッツで出社。ミッシェルと比べて、まるでパワーがない(当然か)。
今日は今年最後にして最大の会議がある日だ。しかし、それだけやっていれば良いというわけでないところが苦しい。
早めに出社したので、勤怠関係の申請承認をやろうとしたら、アクセス可能時刻前でできなかった。忙しい管理者のために24時間アクセス可能にして当然だと思うが、なんという間抜けなシステムだろう。別の仕事を先にやって、ラジオ体操後にようやく処理を終えた。早朝から腹を立てていては、ろくな1日にならないだろう。我慢我慢。
午前中に常務二人が出席する会議を終えた。危うい内容だったが、なんとか無事に。
そのまま本社へ出張。もちろんヴィッツで、だ。
ラジオのDJが「不景気なときは小さな幸せをたっぷり楽しもう」と叫んでいた。
本社に着いてすぐ昼食を摂った。白味噌汁が美味かった。これが今日の小さな幸せかも(笑)。
役員が大勢出席する会議の時間になった。来年以降の私の組織の開発の方向付けをする大事な会議である。もちろん会社にとって大事な方向付けなので、大勢の役員が出席するのである。
説明資料を可能な限り少なくして、役員に大いに議論してもらった。
ほぼ我々の希望通りの着地点になった。しかし、昨今の厳しい経営環境を反映して、経営資源の投入に関しては、来年2月頃に再審議となった。
修理の完了したミッシェルを受け取り、そのミッシェルに給油して帰宅した。
児童文学者の川越文子さんから手紙が届いていた。『もうすぐだからね』(銀の鈴社)が好評とのことだ。目を覆いたくなるほど残酷な事件が頻発する昨今、一方で癒しの文学が話題になる。しかし、好著を評価している人は善人ばかりで、事件を起こしている人の心を癒す文学は存在してないようにも思う。もしあったとしても、それは事後のことだろう。
アクセスカウンターが年内に110000を越えるのは確実でしょう、と書いてあったので、久しぶりにチェックしたら、早くも越えていた。ほとんど知人が訪れるだけなのに、よくここまでカウンターが増えたものだ。
12月20日(土)「また大学教授の読者が増えるかも・・・の風さん」
久しぶりに調べ物をしようと、午前中、愛知県図書館へ出かけた。自宅を出てすぐ、昨夜リストアップした資料のリストを、書斎に忘れてきたことに気が付いた。ますますボケが進んでいて、いやんなっちゃう。
地下鉄丸の内駅から県図書まで、けっこう歩かなければならないので、今日は試しに市営バスに乗ってみた。やはり随分と近かった。
県図書では期限の切れた利用者カードを更新してから、勝手知ったる検索用パソコンで蔵書検索をした。とりあえず記憶しているものだけ。
書庫の2冊を借り出して、早速調査。分厚くて字体の古い資料だが、ぱらぱらとめくっていたら、目的のキーワードがいくつか見つかった。借りることに決定。気になる別の本を開架で見つけてから、レストランへ直行。ここのレトロな昼食が気に入っていたのだが、何と、Sugakiyaになっていた。ガッカリ。
地下鉄を乗り継いで本山キャンパスへ移動した。
大野先生が懇意にされている先生がSCM(サプライチェーンマネジメント)の講演をするので、聴講に行ったのだ。やさしく説明してくれたが、私には難しかった。青山学院大学の黒田名誉教授、ごめんなさ〜い。
夕方から懇親会があり、それにも出席した。黒田先生ともお話できた。とっても腰の低い紳士で、私ごときのくだらぬ話も熱心に聴いてくれた。でも、うれしかったので、拙著を送る約束をした。
随分飲んだ気がするが、寒さのせいか、足元も確かで、ちゃんと帰宅できた(笑)。
本巣市教育委員会へ注文していた高木貞治の資料3冊が届いていた。
12月21日(日)「論文の手直しでおしまい・・・の風さん」
9時起床。空はどんよりとしているが、気分はまあまあで、今日はたくさん仕事ができそうな気がする。
急いで朝食を済ませて早速書斎へ。雑用の処理はほどほどにして、論文の修正に着手。昼食をはさんで、夢中になって頑張る。ところが、修正しているうちに、どんどん分量が増えてしまった。学会誌に掲載してもらうのにお金がかかるのだが、ページ数が増えるとそれに比例して料金が跳ね上がる仕組みなのだ。貧乏作家としてはちとつらい。が、必要なものは必要なので、めげずに作業を続けた。
夕方、手の空いたワイフと、次女の100号の大作を玄関の壁にかけた。この100号は横長で、かなりの面積を占める。幸い我が家はオーナーの太っ腹ででかく作ってある。玄関から廊下もびっくりするほどの広さがある。さらに玄関は吹き抜けになっているので、大きな絵をかけても圧迫感はない。……ということで、電動ドリルで小穴を開けて、太いタッピングスクリューを同じく電動ドライバーで打ち込んだ。水平にかけるのはけっこう難しかったが、まずまずの仕上がりだった。玄関がゴージャスになった。
夕食後も論文の手直しを夢中で続けたが、午前零時近くまで頑張ってやっと出来上がった。ここですぐに大野先生へ送ると後悔するに決まっているので、しばらく暖めてから送ることにする。
できれば年賀状の準備をしたかったのに、結局、論文の手直しだけで終わってしまった。
12月22日(月)「とんでもない1日のスタート・・・の風さん」
電車で行かなければならないのに、寝坊してしまった。二番寝したのがいけなかった。舌打ちしながらベッドから飛び出した。寒い!
急いで出社の準備を始めた。
7時22分発の電車に乗るつもりだったが、無理だと分かったので、ケータイでチェックし、朝食も抜きにして、36分発を狙って家を飛び出した。目的の駅まで2回乗り換えるパターンだ。
最初の乗り換えは成功した。
2回目の乗り換えは8時1分発の鈍行だったが、違うホームから出て行くのを見送る羽目に……(涙)。
次の8時5分発の急行を待って乗った。
予定通りなら、8時8分に着いて、8時10分発の会社バスに乗るのだが、次の急行は8時9分着で、間が1分しかない!
真っ先に降りて、駅から飛び出したが、バスは出発してしまった!
悪態を吐きながら、タクシーの列を眺めていたら、バスが信号待ちで停車したのが分かった。
それで、意を決して、バスに突進。ドアを開けてもらって無事着席(^_^)。
とんでもない1日のスタートを切ってしまった。
ここまで書いて疲れてしまったので、この日の夜は名古屋で、九州大学のM先生を囲んで楽しい忘年会をやったことだけ記載しておこう。
12月23日(火)「友人と何度も遭遇・・・の風さん」
今夜も飲み会があるので、電車で出社。天皇誕生日なので、休日ダイヤ。時刻表に注意。ボケが進んでいると、こういうつまらないところでミスをする。最初の駅で友人が乗り込んできた。彼も今夜は飲み会なのだと言う。いつも気まぐれ日記を読んでくれているが、補足説明のつもりで近況を語った。無理をしないようにと忠告してくれた。
会社バスが迎えに来てくれる駅で、エクスパック500を投函。土曜日に約束した拙著の送付である。ポストの口が小さくてちょっと心配したが、うまく押し込むことができた。
今日も多忙な1日だった。まったく余裕なし。いつまでこういう状態が続くのだろう? でも、これが現代の典型的な会社員の姿に違いない。みんな必死に頑張っているのだ。
定時後、職場の先輩のクルマに便乗させてもらって、飲み会場へ。車中で談論風発。
今夜の飲み会は所属するセンターの次長以上の忘年会で、昨今の経営環境を反映して、会費をぐっと抑え(必然的に並ぶ飲食物も質素になり)、ちょっと気勢の上がらない飲み会だった。来年は賞与も半減するという噂があり、それも元気をなくしている一因だ。会社員だけでなく、作家や学生の顔も持つ特異な存在の私としては、皆に元気を与えたい。
ふと見たら、今朝電車で一緒になった友人がいた。なーんだ、ここへ来ていたのか。申し合わせたわけでもないのに、帰りの電車でまた同じハコで鉢合わせになった(笑)。
12月24日(水)「今日は何の日?・・・の風さん」
今日は勢いでミッシェルで出社。結果として正解だった。
午前中、社長が現場見学に訪れた。私の職場は初めてだろうと思って準備していたのだが、何となく雰囲気が違った。けっこう質問が多く、予定の時間をオーバーしないか、心配になるほどだった。
昼休みの途中から常務報告をしていたが、本社へ戻られた社長から電話があった。午前中の案内のお礼と感想を伝えてきたのだ。そこで確認してみると、やはりこの職場の見学は初めてではなく、8年前の部長時代に訪れていた。8年間経過して目覚しい進化を遂げていたなら、こちらも胸を張れるのだが、残念ながら「まだまだだね」と、我々の力不足がばれてしまった(笑)。しかし、わざわざ電話して来られるという気の遣いように、我々は感謝するとともに、大いに発奮しなければならない。来年から管理職の看板をおろす私としても、これまでできなかった貢献を精一杯やりたい。
その後も、会議が続いた。
その合間を縫って、ある資格入手のための講義と試験を受けた。通常3時間かかる講義を、半分の1時間半にしてもらってすぐ試験。職場の若手と二人で受けたのだが、試験問題がひっかけタイプで危なかった。合格ラインは60点以上だが、私は73点だった。しかし、若手の同僚は、93点という高得点で、大きく差をつけられた。ボケの這い寄る我が身をうらめしく思った……いやいや、まだやれる、と信じて頑張らねば。
定時後、職場内をあちこち動き回っていたら、どんどん人がいなくなっていた。どうしてかな、と思って残っている者に聞いたら、今夜はクリスマスイブだと言う! そんなもの、全く忘れていたし、気にもしていなかった。またまた浮世離れした自分を再認識した。
今日は、オフクロのセリカの任意保険の延長で、何度も電話をかけねばならなかったが、最後に兄貴のケータイに報告の電話して、どうやら一段落したようだ。疑り深くなっているオフクロを説得するのは、本当に大変だった。
仕事はたくさん残っていたが、帰ってやることも多いので、退社した。ミッシェルで出社したので、好きな時間に帰れるわけだ。
帰宅したら、遅い夕食がまさに始まろうとしていた。チキンがあって、クリスマスディナー風である。
「あら、知らなかったの?」
ワイフからまで呆れられた。
12月25日(木)「電車の旅・・・の風さん」
超過密スケジュールで上京の日である……が、出発でしくじった。
予定していた7時22分発の名鉄特急のドアが開いて、乗り込もうとした瞬間、新幹線の切符を忘れたことを思い出した。なぜ思い出せたのか不思議だが、そんなことはどうでもいい。乗車はパス。すぐ家へ電話して、置き忘れた切符を持って来てもらうようにワイフに頼んだ。
次女を送って来るついでに、私の切符も届いて、予定より14分遅れの36分発の鈍行に乗り込んだ。ここからケータイで、午前中のスケジュールの再立案となった。どのように頑張っても、10時半に予定している会議には間に合わないことが判明した。現地で合流する同僚とも連絡を取り合って、会議を11時開始に変更してもらった。やれやれ。
鈍行から特急に乗り継いで名鉄名古屋へ。22分遅れののぞみ自由席に乗車。意外と空いていた。新横浜で降りて、横浜線。私鉄からJRへ乗り継いで、30分遅れで現地へ。
世の中は不況の嵐が吹き荒れているが、東京は快晴だった。風もほとんどない。
無事に会議を終えてから、次の会議の場所へ移動を開始した。JRを2本乗り継いだ。
駅近くのヴィド・フランスで急いで昼食にして、午後1時からの会議に出席した。これも無事に終わった。
午後3時に自由の身となったので、S社そしてK社の編集者と会って軽く打ち合わせた。
帰宅したのは午後8時半過ぎだが、今日乗車した電車の数を計算してみたら、全部で16本(笑)。今日は最初でしくじったのでひどく疲れてしまい、持参した本を読む気力が湧かなかった。
自宅でひと息ついていると、オフクロから電話があった。任意保険の件で、まだ納得していないことが分かった。自分は年とったらすべて子供の言う通りにしようと思う。
12月26日(金)「会社の年末最終日・・・の風さん」
昨日、いやと言うほど電車に乗ったので、今日はミッシェルで出社することにした。
……と、外を見ると、怪しい雲行きだ。それに、やけに冷え込んでいる。
玄関を出たら霙(みぞれ)だった。寒い。
しばらく走っていたら、猛烈に雪が降ってきた。やばい。タイヤは新品だが、車重が軽くて、パワーのあるミッシェルでは、すぐ空転するのだ。
常滑市内に入る頃から、急激に天気が回復してきた。知多半島は、特に冬場は、南北で天気が全く違うことがよくある。
途中、いつものところで郵便を投函し、それでも、職場のラジオ体操に間に合った。
午前中、席替えをやった。
自動車業界の一翼を担う会社に勤務しているので、昨今の急激な不況を直接感じている。製作所によっては昨日から休日に入ったところがある。通常は、今日が、年末年始休暇前の最終日である。この不況の厄介なところは、原因が自分たちの力不足というより、環境要因つまり世界経済動向にある点だ。自分たちの努力だけでは、どうしようもない。だから、私はよく言うのだが、景気が急激に悪化したのと同様に、めきめきと上昇する可能性もある。それまでは、慌てずに、じっと我慢するしかないのだ、と。
ただ、こういうときに気に入らないのは、不景気を煽るようなマスコミの報道である。なぜ、国民に元気や希望を抱かせるような行為に出ないのだろう。今こそすべての国民が協力してこの不況を乗り切らなければならないはずなのに。
昼休みに「セーフティコール」と言って、食堂の出口で交通安全の呼びかけをやった。職場の主だった職制が務めるボランティアだが、役職定年を迎えた私の、来年の出番はないだろう。その最後の「セーフティコール」で、毎回配っているクッキーが、予算削減で廃止されたのは寂しい限りだった。
午後は比較的会議も少なかったので、せっせと自分の雑用を片付けようとしたが、定時までかかっても未読メールの数は1400を切ることはできなかった。
ミッシェルで早めに退社した。
今夜の論文修正を皮切りに、自分の仕事は山のように残っている。
12月27日(土)「今年最後のゼミ・・・の風さん」
午後からのゼミに出かけるギリギリまで論文の修正をし、念のため大野先生へメール送付したら、すぐに返信があった。先生は今夜京都へ帰られるので、ギリギリまで私の論文に付き合っていただくことになり、大変申し訳ない。
今日から名鉄ダイヤが新しくなる。発車までほとんど時間がない。3分で卵かけご飯の昼食を摂って駅へ……着いたら、発車時刻を間違えた。新聞折り込みダイヤは、始発駅の時刻表だった(笑)。
今日は先生からお借りしているノートパソコンを持参しているが、車中で作業をするわけにはいかない。年が明けると、学会発表準備etc.の嵐になるので、その手順をプリントしたものを色々と読んでみた。……こりゃ、死ぬかも。
いくら何でも、年が明けたらすぐ論文はK工学会誌へ投稿する。次は、1月9日がK学会東海支部で発表する予稿締め切り。1月15日がS工学会で発表する予稿締め切り、同日、ドイツで10月に発表するためのアブストラクト締め切りだ。ここまでが1月前半のヤマ場で、次が月末である。昨年淡路島の国際学会で発表した内容が、イギリスから出版される本に収録されることが決まったので、その論文の提出締め切りが1月31日なのである。同じ月末までに、愛工大へ研究活動費を申請しなければならない。
学業と並行して、作家活動も風雲急を告げている。1月末までに2冊と読み物1本を、あるレベルまで進めなければならないのだ。
本山で5時までたっぷりゼミをやった。今度の修正で論文の投稿準備完了となるだろう。
今夜はワイフ、娘2人と名古屋で夕食を摂ることになっていた。まだ、時間がある。地下鉄を伏見で降りて、途中エイデンに寄ってパソコンソフトをチェックし、そのまま歩いて名古屋駅へ向かった。歩くのはけっこう平気だ。
夕食までまだ時間があるので、長女がお勧めの焼き立てバームクーヘンの店に入った。流行に敏感なのは若い証拠だろう。給料が安いのに、大変だ。
夕食はイタリアンでたっぷり食べた。白ワインもたくさん飲んだ。最近は活動エネルギーの補給と考えて、けっこうたくさん食べる。
帰りの名鉄のダイヤは不便で、待ち時間が長かった。
帰宅してから、補給したエネルギーを消費した。たまっていた名刺の整理と、今年最後の書籍のインターネット注文である。きっと年内に届くだろう。
12月28日(日)「楠木さんの圧倒する量産力・・・の風さん」
やることが多いので、のんびり寝坊しているわけにはいかないが、それでも8時間睡眠をとった。寝不足では途中で仮眠が必要になる(笑)。
パソコン操作で初めてトラブルがあった。シフトキーを長押し(8秒以上)したため、変なことが起きた。常にシフトキーが押された状態になってしまったのだ。執筆マシンをそのままにして、アシュレイを使ってネット検索したら、トラブル事例がすぐに見つかった。シフトキーを5回連続して押しても起きることらしい。解除方法も分かったので、やってみたら、できた。
今日こそ年賀状印刷をしなければ。送付先の選定をした後、1時間のウォーキングに出かけた。休暇中にしっかり活動するためには、睡眠と栄養と運動が必要だ。たっぷり着込んで出かけたが、穏やかな天候で、そこまでの必要はなかった。帰宅した時には、下着が汗ばんでいたので着替えなければならなかった。
ところで、帰宅したときに、郵便ポストに本が届いていた。もしや、と思って開封してみると、またまた楠木誠一郎さんからの贈呈本だった。大和文庫『甲子夜話 天狗狩り』。今年16冊目、今月だけで4冊目である。そう言えば、つい先日、名古屋駅のキオスクで楠木さんの本を見た。売れているのに違いない。……しかし、圧倒されているだけではすまない。楠木さんのお身体が心配になってしまう。でも、せめて今は、楠木さんの本の宣伝に微力ながら貢献しよう。
午前2時までかかって、年賀状の作成を終えた。200枚。本名よりも筆名での送付が圧倒的に多い……が、届かない皆様、ごめんなさい。
12月29日(月)「ウォーキング2日目・・・の風さん」
午前10時起床。だんだん休日モードになってきたな。
朝食後に雑用を片付け、昼食後に書斎周りのゴミ出しPart.1、そろそろ夕日が傾いてきた時刻にウォーキングに出発。昨日は厚着し過ぎたので、今日は帽子とマフラーをやめた。昨夜準備した年賀状を持つ。今日も穏やかな天気で、暖かい。
団地内のポストまで歩いて、収集時刻をチェックすると14時だった。あまりの遅さにここで投函するのを中止。美術館通りへ進入。このあたりは別荘が多い。何となく時間が止まったような一画だ。美術館から最後の客が出てくるところだった。隣接するレストランは、とっくに営業を停止している。
メインストリートに出る角の屋敷も別荘だが、最近は利用していないようだ。最上階の海に向かった部屋のガラス窓を通して、主のいない天体望遠鏡が寂しく空を見上げているのが見える。
国道へ出るまでメインストリートはゆるい下り坂になる。右手には藪と小山に囲まれた田畑が広がっている。どこかで鳥が鳴いているが、姿は見えない。
国道を南下する。車が盛んに往来するが、年末の慌しさは感じられない。のどかな田舎の道路である。
スーパーマーケットの駐車場にあるポストにたどり着いた。収集時刻は、午前10時だったので、ここで投函することにする。輪ゴムで3つに束ねた年賀状を、そろりと押し込んだ。
昨日と違ってゆっくり歩いたのだが、それでも汗ばんだ。帰宅すると、一昨日ネット注文した書籍とDVDが届いていた。DVDは『ダークナイト』。面白かった映画だ。
今夜は論文修正の2回目で終わった。
12月30日(火)「ウォーキング3日目・・・の風さん」
目覚めてカーテンを開けると、今日も穏やかな陽気だ。今年の年末年始は、徹底して身辺整理と激動の新年への準備のためにあるらしい。頑張らねば。
昨日と全く同じペースで進む。軽い朝食後、雑務をこなし、昼食後に書斎周りのゴミ出しPart.2。そして、やはり今日も夕方からウォーキングに出発。いでたちは昨日と同じ。ただ、外へ出たら少し風がある。毎日同じコースではつまらないので、国道へ出たら海の方へ行こうと思う。
団地を抜けるまで犬と散歩する人を何人か見かけた。愛犬と一緒の散歩は楽しいだろうが、家を留守にすることが難しくなるから、すっかり老境に入ってしまってからにしよう。
国道から右の小道に入った。いちおうガードレールがあるから、私有地に入って行き止まりということはないだろう。田舎なので、こういう心配はすぐに現実のものとなる。
しばらく行ったら、舗装された道がなくなった!
本当に小さな小川を横切る、幅1mもないコンクリートの橋を渡ると、舗装していない小道に出た。地面だ。自転車の轍(わだち)で細い筋が何本もできている。原っぱを横切って、舗装された道へ出た。このわずかな土地の横断が、郷愁を覚えさせるのも不思議だったが、真実だ。
しばらく歩くと防波堤の手前の道に出た。海からの風が急に吹き付けてきた。磯の香りが混じっているのは、海苔の養殖がされているからだろうか。
伊勢湾だ。
対岸の山間に沈む赤い夕陽を背景に、大きな貨物船やフェリーがはるかに見える。
夕凪とはほど遠い波がせわしなく砂浜に打ち寄せている。
防波堤に沿う道を北へたどり始めた。海上はるか、いや意外と近い位置に、セントレアとそこへ続くブリッジが見えた。離着陸する機影はない。
右の小道へ進入すると、急に風を感じなくなった。わずかな林でも防風林の効果があるのだろう。
風があったのに、今日も少し汗ばんだ。
今夜は、午前零時過ぎまでかかって、どうにか論文の修正を終えた。
12月31日(水)「2008年を総括・・・の風さん」
大晦日である。のんびりしている余裕は……今年もない。この年末年始はとにかく身辺整理と来年への準備だ。
昨日に続いて、朝食後は雑務。今日は、経費処理の残務をすべて片付けた。昼食後は書斎周りのゴミ出しPart.3。こりゃ、まだまだかかるぞ。いちおうカレンダーを付け替えた。新年を迎える準備オッケー(まだ早いっちゅうに)。
外が暗くなりかけてきたので、慌ててウォーキングに行く準備。
「今日は寒いわよ」
ワイフの声を背中に、万歩計を腰につけて出発。
すれ違うのは犬の散歩の人ばかり。
確かに今日は風が冷たい。
まっすぐ海岸へ出た。強い向かい風に、裕次郎のウィンドブレーカーの襟を立てる。こいつはお気に入りの上着だな。
昨日は、砂浜に侵入して駐車しているBMWがいたり、突堤にうずくまっているヤッケ姿の男の姿があったりしたが、今日は人っ子一人見えない。海辺でも人家があるので、外につながれたビーグル犬が、こっちを眺めているだけだ。
空が暗褐色の雲に覆われているので、海の色も濃紺に泡立っている。はるか対岸だけは空が部分的に晴れていて、レオナルドダビンチ光線が雲間から放射状に陸地に降り注いでいた。中世の油絵にでもありそうな光景だ。
私はひたすら海岸線を南下した。横殴りの潮風は、今日は磯の匂いを含んでいなかった。耳が凍てて痛くなってきた。
国道に出て、いつもの道を戻ってきた。約1時間のウォーキングだった。万歩計を見たら、6643歩だった。休憩なしのウォーキングは、1分間に100歩のペースだったらしい。3月の前立腺肥大手術から、ここまで復活したということか。
恒例の、今年の総括をしよう。
【小説】
発表なし。
【出版】
『和算小説のたのしみ』(岩波書店)3刷まで増刷
【エッセイ・読み物など】
『待っていてくれた秋明菊』
「大衆文芸」08年新年号
『和算の世界に見る数学教育 −江戸時代にもあった数学サークル−』
「じっきょう数学資料 NO.56」(2008年2月)
『和算の贈り物−円周率と忠臣蔵』
「刈谷図書館協会報 第48号」(2008年3月)
『ゼンは急げ』
「大衆文芸」08年5・6月合併号
【講演・トークなど】
没後三百年祭記念「関孝和と和算の世界」で講演(08年4月29日)
ジュンク堂池袋本店 トークセッション 第三弾(08年5月17日)
社会人講話 阿久比中学校(08年7月8日)
東京都戸山高等学校でSSH数学特別授業(08年10月28日)
近畿和算ゼミナール主催「市民講演会」で講演(08年12月14日)
注)他に会社員として、講演が2回、学会発表が2回。
学会発表の一つは下記。
淡路夢舞台の国際会議場で開催された「ICMA2008(International Conference on Machine Automation)」にて、英語で研究発表。
【その他の特記事項】
昨年に続き、関孝和没後三百年記念事業の発起人の一人として活動。
昨年に続き、愛知工業大学大学院経営情報科学研究科のパンフレットに在学生として登場。
昨年と比較したい方はこちら
2009年は、これを上回る成果が出せるように努力しますので、皆さん、応援してくださいm(_ _)m(←これって、昨年と同じ締めくくり)
09年1月はここ
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